2013年2月4日月曜日

サバティカル日記 22 ダカール3

ゴレ島行きの船の時間まで1時間あったので、カフェに入って昼飯を食って時間を潰したとき、あるイタリア人が話しかけてきた。いろいろ話したあとで、ところでどうなの、ダカールは好きか?と。どうしようもないところと面白いところがあるよね、と答えると、彼は突然、ダカールの悪口を次々と言いだした。最低だと言う。アフリカはどこへ行ってもきったねえし、金にもやかましい、なんだこいつら……。そういう気持ちも分からないでもない。ダカールは危険だし、傍若無人だ。空気の悪さと言ったら凄まじい。特に冬の時期が酷いらしい。それはモロッコのベルズーガやワルザザードでも、冬はとにかく風が強くて砂が舞うと言っていたことを思い出したが、そういうことじゃない。いわゆる公害だ。頭は痛くなってくるわ、喉はガラガラになるわ、目はちかちかするわ、どうにもこうにも環境は劣悪である。人間もホントに劣悪人間が多い。

一刻も早く家に帰りたいよ、とベローナの近くに家があるという彼は言っていた。ベローナ、知っているか?と聞くから、中田英寿は知っているか?と尋ねると、とたんに顔をほころばせた。中田はベローナにいたからな。イタリアだから、というよりも、ここセネガルでもモロッコでも、みんなサッカーに夢中だった。スポーツというとセネガルの国技はレスリングだそうだが、みんなサッカーだ。テレビ番組はサッカー。モロッコでもバスの運転手が途中休憩の時にサッカーに夢中で運転しに戻りゃしない。客も戻らないから良いのだろうが、それにしても凄いもんだと驚いた。誰かが点を入れたときなんて、バスの中が大騒ぎだった。テレビを囲む姿は、昔々のプロレス中継と一緒だった。
 この最悪とまで言われるダカールだが、それでもまだマシなんだろう。経済的には西アフリカの優等生だそうだ。

ダカールの美術館に行ってみた。それはそれは凄い。一点一点を激しく見入ってしまった。岡本太郎が見たら、さぞや興奮しただろう。力感に溢れている。仮面がメインになっている美術館だが、見ようによっては縄文である。原初的な力が四方から取り囲んでいるような力業だ。こういう美術を見ると、西洋美術で起こったいろいろな運動は、とっくの昔々にアジアやアフリカでやられていたことだと改めて気付かされる。体系だっていないだけで、原初的な、自由な激しさに満ちているのである。セネガル、マリ、ブルキナファソ……。マリのアートも多かったが、ホントにマリに行けなかったのは残念だった。自由な発想に充ち溢れている。
 音楽も同じである。あの声の伸びやかさ。リズムの多彩さ。伝統楽器の強み。それらはまるで大地を流れる風のように響いてくる。

どんなに街の状況が劣悪でも、こういう文化を持ち得ていることで、僕の中では帳消しになってしまう。

そしてゴレ島に行った。ゴレ島は奴隷貿易の拠点だったところだそうだ。案内をつけずにひとりで歩いた。誰とも語らずに歩くが、やはりここでも女性たちがやけに親しげである。それはオレがセネガル女性に人気があるということなのだろうか?とふと思ってしまうほどである。けれど、それとは別に建物や花々、波の白いしぶきがやけに寂しさを募らせていた。狭い島だが、なんとも言えぬ空しさがそこかしこから漂う。

今では奴隷貿易を売りにして、売られた側の人々がそれを商売に使っている。

さて、今からセネガルとはおさらばだ。イスタンブールを経て、テルアビブ入りする。


2013年2月3日日曜日

サバティカル日記 21 ダカール2


 ダカールは面白いが、貧民が多い街でもあって、そういう街では人は完全に二分される。
  ここも金のない連中は凄まじい勢いで金を求めてくる。そして、結構危険でもある。イヤになってしまうくらい金、金、金。ここで怒鳴ったのはもう3回になる。怒鳴るときは日本語が良い。その方が感情がストレートに出る。一人ならまだ良いがチームになってやって来る奴等もいるから、気をつけないと危ない。ちょっとヤバイ連中かもと思ったら、寂しい方向へと歩いてはダメだ。気付かれないように付いてこようとして、壁の陰にふたり組とか三人組で隠れるのである。特に衣装を売るような格好をしているヤツが危ないことに気付いた。つまり衣装で何をしているかを隠し、その間に他の連中がなにかをしでかすのだろう。夜もまた、危ない。街灯がないから黒人はまったく見えない。闇に紛れてしまう。この辺りの黒人はホントに真っ黒だから、闇に溶けるのである。そして突然、ヒュッと現れる。
  ある小銭ねだりの男がずっと付いてきたから、果物屋で果物を買った。そこは行きつけの店でもあり、すると手慣れたもので、みかんを一個与え、すぐに退散させていた。お前は中に入ってな、という具合に僕は椅子を用意されて座って見ていた。この人たちは、ほんとに人なつこい。握手を求めて来る人たちも多い。正業について働いている人と仕事にあぶれている人では、まったく顔付きが違う。
 ここはインドより悪い。

 思えば、エッサウィラでもメクネスでもマラケシュでも、ダカールに行くというとみんなイヤな顔をしていたことを思い出す。ダカール、とんでもねえと。メクネスの宿のオバサンは昔行ったときにどれほどイヤな思いをしたか、ということをこちらが飯を食っているのに延々と語ってきかせてくれもした。昨日、日本大使館の方とも会ったが、この町面白いですね、と言ったら、不思議なものを見るような顔で見返していたから、僕のような感想を持つ人は少ないのかも知れない。

 街は凄まじいほどの空気の悪さだ。歩くとすぐに目が痛くなる。ホテルの窓を開けていると埃が入り込むし、排ガスの匂いやらモロモロ、あまりに環境が悪い。毎日、空気の悪さゆえ、空が曇り空になってしまう。咳き込む。どうしようもないほどの劣悪な環境。車の渋滞、いや駐車した車と移動する車と歩く人間が一体となって混沌としているから、路上を歩くことがとにかく危険である。それにユッスンドゥールは大臣になってしまって、もうほとんどライブ活動はやっていないらしく、楽しみにしていたライブを見ることもできない。なんてこった、というほど、希望が消えていった街である。
  それでも僕はこのa町に居続けた。

 こんな酷いところはあまりないなあ、と思うからでもあるが、イヤな人間ではなく、良いなあと思える連中もまた多いのである。まったく言葉が通じないおんぼろタクシーの運転手でさえ、良いヤツに当たるととにかく親切だ。タクシーはホントにボロボロ、ボコボコである。そのくせホテル代だけは日本より高いもんなあ、不思議。道を尋ねると、親身になって世話してくれようとする人もいる。でもみな、フランス語だから何だか分からない。英語を理解する人はほとんどいない。

 それにお姉ちゃんたちが面白い、というかかわいらしい。結構、みな、ツンとした顔をしているんだ、カフェでも店の売り子でも。でも、ひとたびそのツンが面白くて、微笑むと、突然、顔を一変させ、はにかんだ顔になってしまうんだな、このツン姉ちゃんたちが。それはそれはかわいらしい。まるで浄瑠璃人形である。溶けちゃうんだよね。顔。でもここにいる白人、特にフランス人だろう、彼らの店に入ったりしても、何も表情が変わらないから面白くも何ともない。ツンツンセネガルの美女たちの、一瞬見せるトロッとした顔は実に精神的に良い。

 さて、そしてここにいた最大の原因は、やっぱり音楽である。昨日、今日とライブに行って来た。どちらも痺れた。セネガル音楽は凄いね。伝統に則って、そこから伸びのある声、コラという楽器の響きに心底、やられた。今日も途中までは杉田二郎のセネガル版みたいなイメージを持っていたのだが、途中からまるで変わった。猛烈なリズムと伝統楽器の強み。それから途中で歌った女性歌手の歌はまるで演歌だった。これが素晴らしかった。歌は良い。屋外の、まだ昼間の排ガスの匂いが残る空気を吸いながらだったが、音楽がそれらのマイナスをすべて帳消しにして、ああ、もっと聴いていたいと思わせるに充分だった。

 ダカール。音楽の街だ。

2013年2月1日金曜日

サバティカル日記20 ダカール初日

笑っちゃうね、という感じでダカールが始まった。
 しょうもねえ連中もいるけれど、ここの連中の方がまだモロッコにたくさんいた蠅のような奴等よりいいなあと思える。驚いたのは、買い物をした後、釣り銭がないから次来たとき持ってきてくれ、と私に言った店の親父がいたことだ。次来る?来ることを確信している?へえ、っと驚いた。どう見たって外国人。ましてや英語で喋っているのだから。

 ここもフランスの植民地だったから、フランス語をみな喋る。フランス語が公用語だ。それに共通語としてウォロフ語というのがあるそうだ。でもホテルでもどこでもフランス語しか書かれていない。セネガルが独立したのは1960年のことだからもう50年以上にもなる。1815年にフランス領になり、だから145年はフランスに属させられていたことになる。でも未だに公用語はフランス語である。言葉はアイデンティティだから、フランス語を公用語とすることへの抵抗運動はないのだろうか?バルセロナのあるカタルーニャは未だ独立運動が盛んだけれど。

 ホテルの態度の悪い従業員。昨日、僕が来たときは水をチュウチュウ吸いながら、人のことをねめ回していたけれど、一日経ったら、やけに人が良くなっている。彼は夜の担当なんだが、昼の受付のモハメッド兄さんもまた、ちょいとトンチンカンに親切ではある。こういうトンチンカンな親切というのは実は困ったものでもあるんだが。まあ、嫌う人も多いだろうね。いわゆる通常のサービス感覚じゃない。でもホスピタリティは意外にあったりするから面白い。

 ダカールは物価が高い。全然安くない。感触的にはスペインより高いような……。けれど、全然インフラはなっていない。昼から5時間ほど歩き回ってきたが、もう顔が排気ガスやら埃やらで、ざらざらになっている。そこには汗が蒸発して塩になっている成分もたくさん混じっている。
  モロッコとは全然違う。こちらの方が近代国家ではある。しかし、夜になるとダカールの目抜き通りであるポンピドー通りを除くとまったく街灯がない。真っ暗。近代的高層ビルが次々と建ち並び……と言う人がいるけれど、まあね、そこまでは行かないよね。だからまだいいのかも知れない。

 この街の、たまに出会う英語のできる連中と話をすると、もう文法も単語の発音も滅茶苦茶だけど、凄まじいスピードで知っている単語を並べていく。これは凄い。笑っちゃうほど何を言いたいのか分からないのだが、間がないから、なかなか聞き返せない。昨夜のロイアルエアーモロッコでカサブランカからダカール入りした時の機内の英語も凄まじかった。まるっきり分からない。フランス語なのか英語なのか、それらが混沌としながら出てくる英語だから、さっぱり理解できない。それでもお構いなく次々と言葉を繰り出してくる。今日の兄さんは、インポータントをインポータンスと言って別に悪気なく、たまたま知っているのがインポータンスなんだと思うけれど、それが15秒に一回くらいは登場するような感覚で速射砲の如く語り続けるインポータンス兄さんだったのである。

 女たちの目つきは色っぽいというかエロい目をした女がなんでこんなに多いのだ、と思えるくらいエロい女たちの街である。かなり太ってしまったお姉さんもたくさんいるけれど、非常にスタイルの良い人たちもたくさんいるし、太くても目つきはエロい。ぎょっとするくらいの美女もいる。慣れてしまえば(すぐだ、一瞬で慣れる)、別に黒い肌をしているかどうかはまったく気にならなくなってしまう。でも、ああ、まだまだなんか動物のようだと思う。肌が黒いのも魅力的だなと思う。

 夜は「東京飯店」という中華料理屋に行く。東京?がなんで付いているかサッパリ分からない。店主に聞いてもまるで英語は理解しないし、店主も思いつきでつけたとしか思えない。東京魚、なんてメニューがあったな。なんじゃそりゃ、ではある。英語は通常はほぼ通じないのである。たぶん広東からの人だろう。ああフライドライスの美味いこと!しばらくぶりの中華のうまさ。ここのおばちゃんにやけに親しげな顔で見つめられて少々おどおど。

 今夜はJUST 4 Uというライブハウスに行こうと思っていた。が、何時に始まるか分からない。わざわざタクシーに乗って行かなければならないから、ちょいとそこまで、というわけにはいかないのだ。ユッスンドゥールのライブももしかしたらクラブチョサンという彼のライブハウスで土曜にあるかも。でも開始が夜中の2時なんだとか。眠くてしょうがねえ。でも行かないわけにはいかないでしょ、あるならば、ね。だから明日はJust 4 U で、明後日はClub Chosan だ。スペルはたぶん間違えているだろう。

 そこでその代わりと言っちゃなんだが、たまたま東京飯店から帰ってきたらホテルの向かいにあるレストランから音楽が漏れている。このレストランはホテルのレストランで、ロンプラでは絶賛していた。するすると音楽に惹かれて入ってしまう。けれど、音楽家たちはみんな黒人で、客は全員が白人という図式。そして音楽は白人好みの音楽。アメリカンミュージックなんてやってもしょうがねえだろう、と思うけれどね。ああ、嫌だねえ、こういうのはと思いつつ聞く。巧くもない。そしてマネージャーが白人で、これまた従業員たちが黒人。音楽をくっつけておけば良いというものじゃないだろう。

2013年1月31日木曜日

サバティカル日記 19 エッサウィラ

 エッサウィラで二日半過ごす。

 多くの町がそうだが、この町は特に観光地とそうでない場所にハッキリと分かれている。ホテルの主人は地図を指さし、この地区は夜になると貧民区で危険だから行くな、という。観光区域には売らんかなの態度の人たちがウヨウヨいるが、区域を外れると、いなくなり、顔付きも変わる。着ている服もまったく違う。エッサウィラにも城壁で囲まれた旧市街、メディナがある。その旧市街地には外側、内側ともにいくつものゲートがあって、さまざまに隔てられている。外と内が違うのは当然として、内側でもゲートを潜る度に大きく雰囲気が変わってしまう。完全に城壁の外側に出てしまえば一変し、内側の華やかさはまるでなくなり、生活臭さが漂い、ちょっと殺伐とした感覚になる。しかし、その内側はなんとも薄っぺらな世界だ。そしてフランス人がたくさんいる。

 観光地はなにかがあるから観光地になった。風景や歴史遺産や食事やら、際だった特徴がその場所を観光地化させる。そもそも人が集まって来やすい場所、あるいは集まった場所だったから、流通はお手のものという場所柄ではある。しかし観光客の振る舞いと賃金格差が、ここに住む人たちの一部をどんどん嫌な人たちにしていくのだろう。成り上がってやろうと思う者、あいつら良い思いしやがって、と思いながら観光客を見る者。なんとかして、持っている金を巻き上げてやろうと思う者。そして中には真摯に人間対人間の付き合いができる者がいる。

 この前、ツイッター上でイスラム社会の男性優位についてほんの少しだけ触れたら反論してきた人がいた。あらた真生もイスラムの女性たちが黒服の下でどれだけおしゃれをしているか、知っていますか?と書いてきた。それでさらにその人のツイートを見ると、私のことを「たまに海外に出ると知ったかぶりになる、まるで有閑マダムみたいだ」とまで書いている。なるほど。これが人なのだなあ、と面白かった。自分が知っている範囲を絶対的なものだと思い込む。海外に出て、世界を知っているように思ってしまうが、ある範囲を脱していないからその世界が絶対基準になる。
  旅をしても、海外に出てもこれではまったく意味がない。日本人はすべてをフラットに見る習慣がない。範囲が狭い。だから海外のプロパーと言ってもはっきりとアメリカ専門家、中国専門家……等々に分かれていく。

 日本について考えてみたい。日本は完全に建前は男女平等である。しかし、それでも男性優位社会であることは揺るがない。日本人の女性たちは服装の制限はないから女性たちは皆、おしゃれかどうか? 男性優位が謳われている宗教の元で、どれだけそんなに男の尻に敷かれてなんかいないと言っても、精神的な面では男は女に組み敷かれるものだし(どの国でも同じだ)、外面はやはり圧倒的に男性優位である。態度にも強く表れる。男たちは傍若無人な人が多く、しばらくぶりで、二日に一度の割合でつかみ合いの喧嘩をしている男たちを見たが、ここは肉体優位社会でもある。子供たちでも3組は殴り合いの喧嘩を見た。無様な姿を晒しているのは物乞いでもない限り、みんな男だ。肉体の優位はともかく精神面のひ弱さが浮かび上がりもする。イスラム社会に於いて、戒律に対し抵抗しておしゃれをする人も、美意識からおしゃれを求める人もいるだろう。しかし、戒律に縛られた社会では、そう思ってもできない人、したいとも思わない人たちの方がずっと多いのが現状なのではないか? 女性たちの服装の下を覗き見ているわけじゃないから分からない。けれど、日本の状況を思えば、人によって大きく違うし、かつ戒律面での縛りは大きいはずだ。かつ、イスラムならば国によっても大きく基準が変わるし、シーア派とスンニー派ではずいぶん違う。

 ここは芸術家の街であり、グナワ音楽の発祥の地でもあるという。確かに音楽はそこかしこから聞こえるし、ライブを謳っているレストランが多い。ギャラリーもそれなりにある。けれど、僕が入ったひとつのレストランでの演奏は酷かったなあ。もうひとつのレストランの演奏は素晴らしかったんだが……。ある楽器店の店主の顔付きが良かったので話をする。やはりエッサウィラはどんどん悪くなってきたと言う。そこにスコットランド人の絵描きも加わって、いかにダメになってきたかを語っていた。観光客が集った時に、どういう方向性を生み出そうとするのか、そこに文化力が背景となるのだろう。メクネスのような高い文化性や人間の誇りを感じさせる街もあるのである。同じ国にもかかわらず、だ。
  もともとフランスの植民地だったので、フランス語が通じるというメリットがフランス人たちにはあってフランス人が集ってくる。フランスに比べれば物価は遙かに安い。エッサウィラは気候も穏やかで寒暖の差もさほど大きくないそうだ。そして海辺だから気分は良い。
  ただ長居は無用だ。

 ということで、昨夜遅く、エッサウィラからマラケシュ、カサブランカを経て、ダカール入りした。
  今は朝11時だ。寝たのが3時だったからな。今日でちょうど一ヶ月が経過する。さて、今日はどんな日か。まだダカールの街をまったく見ていない。


2013年1月28日月曜日

サバティカル日記18 メクネス

 このホテルの部屋はすべて石でできている。まるで穴蔵だ。その穴蔵の居心地の良さにスポリと嵌って、ベッドから出たくなくなる。暖房器具が付いているから寒くはないが、なんとも居心地が良い。
  朝、雨。ざんざんぶり。ヴォリビリスの遺跡に行こうかと思っていたが、雨なので、即予定変更。メクネスでダラダラすることにする。
  昼近くまでは部屋にいて、ゆらゆらと外に出る。オッと、晴れ上がったじゃないか。快晴とまでは行かないが、歩くには気分が良いと思いながら、タクシーで駅に行き、明日のエッサウィラ行きの切符を買う。タクシーの運転手も駅の切符売りのお姉さんも、みんなまったく棘がなく、やけに微笑みが美しく、親切だ。これはどうしたことだ、とやはり不思議な気分。ここも観光地なのだ。
  モロッコではメルズーガのような砂漠地帯を別にすれば(とは言え、砂漠の真ん中で、ノマドを助けてと言われての商談には参ったが)、どこへ行ってもノイジーだったからこの静寂さは不思議。
  カフェでダラダラと過ごす。カフェもまた、他ではこんな風に気持ちよく空気が通り抜けていくような感触のあるカフェはなかった。メディナに戻って歩くがやかましい客引きはまったくいない。たまに呼びかけられて話をしても、顔がいやらしくないから良い。マラケシュやフェズはどうしたらこんな顔になるのと思えるようないかにも駄目の典型であるかのごとき顔をした人間だらけだったから、この穏やかな顔の人たちに不思議な幻惑感を覚える。道を聞いてもわざわざ案内してくれようとする。チップは受け取らない。路上の物売りの人たちでさえ、地図をみんなで見ながら、あっちだこっちだとやっている。もちろん言葉は通じないが、通じないなりに真剣なのだ。親切過ぎて、ちょっとうっとうしくもなるがそれは贅沢というものだ。オレは君たちの親戚の叔父さんでもなんでもないんだよ、オレはあなたがたの友だちの輪に加わったことは一度もないはずなんだけどな……ってな感じ。そっちこっちで「ニーハオ」と呼びかけられる。フェズでは日本人だったのが、ここでは中国人になっている。日本人だよ、と言うと、いやお前の顔は中国人だという。フウン?

 この文化に触れるのが面白い。フェズとメクネスでは距離にして50キロしか離れていない。たったの50キロ。でもまるで違う文化を持つ。フェズの喧噪感がゼロ。人と人との距離感もまったく違う。どうしてなのか?誰に聞いても答えてはくれない。フェズは大都市だから、という人。でも大都市というのは理由にはなるまい。確かにメクネスは大きくはない。でもシャウエンのようなさらに小さな町の客引きでさえやかましかったし、マリワナ売りが何人もいた。おんぼろバスでさえ、荷物代として20ディルハムを要求してきた。これは異様に高い値段だ。10メートルだけ案内して20ディルハムを要求したアホな案内人もいた。逆にもらえるわけないだろ!少しは考えろよ、バカと日本語で言っておいた。せいぜい5ディルハムだ。そして1ディルハムをくすねる連中がそこかしこにいるのである。マラケシュでは、まず人の言うことを信用してはいけなかった。金が絡めば別だ。でも金が絡まないと、みんなツンケンして振り向きもしない。
  ところがメクネス。古都メクネス、という言い方をする人もいるが、フェズはさらに古都である。京都と奈良のようなもの、という言い方も見かけるが、人間性で言えば、まるっきり違うのである。

 街をぶらぶらと歩く。スークに行って、動物たちの首だらけの肉屋の前を通る。牛も羊もみんなさらし首だ。ここでは鶏はその場で絞め殺し、肉を売っている。内臓がその辺に散らばっている。内臓もモロッコではすべて平らげるという。すべてを活かすのは特別ではないが、強く動物の肉とともに生きてきたことを実感せざるを得ない。
  山と積まれた香辛料売り場とピクルス売り場、モロカン菓子売り場を通り抜け、再びプラザという広場に出る。と、そこかしこでベルベル音楽が演奏されている。ベルベル人たちの音楽。明日向かうエッサウィラはグナワという音楽の中心地だというから、楽しみ。グナワ音楽もまた、聞けば本当に面白い。もちろんアラブマグレブ音楽も面白い。アラブ歌謡も楽しい。こういうベルベル系音楽、グナワ音楽、アラブマグレブ音楽、アラブ歌謡……これらが混沌となって常に鳴り響いている。


 どれもこれもが、幻惑装置としての音楽のように聞こえてならない。そもそも音楽には幻惑剤の要素はあるのだが。
  夜、電球の光に照らされた人々の顔がなんとも素敵に見える。街を一周してみる。古都だと改めて思う。戦渦に耐え、時間を育んできた街だが、やはり人々は生きている。遠くから城壁を眺めると、美しく生きた方が、やっぱり得なんじゃないかと思える。水売りがいた。赤い服を着て、イノシシの首だろうか?その皮の中に水を入れて鐘を鳴らしながら売り歩くのである。これはなにかの映画で見たなあと思い、危険性も省みず、即、水を飲んだ。決して美味くはないが、にたっと水売りの叔父さんにされて、こちらもにたっとしたらもう一杯飲めとごちそうしてくれた。うまくないし、危険だが、しょうがない、一気に飲む。さらに一杯くれようとするので、制止。でも、このオッサンの顔が良かった。なんの悪意も敵意もなく、いい顔だった。
  未だ、問題は起きていないから大丈夫だろう。明日はエッサウィラ。

2013年1月26日土曜日

サバティカル日記17 シャウエン⇒メクネス


青いシャウエンをあとにして、メクネスへの旅。

朝から土砂降りの雨。とにかく寒い。暖房はもちろんない。
 乗ったバスが、地元の人たち用のバスだった。国営のバスと値段はほぼ変わらないのに、なんでこんなにボロいの?というくらいのおんぼろバス。出発前にはエンジン部分を直している。叩いたり、蹴飛ばしたり、吹かしたりしながら、やたらと胡散臭い顔した連中がみんなで笑っては、頬をくっつけあっている。もちろんみんな男。

走り出すと、妙な音がする。大丈夫なのかな、このバス? と思いながら乗っている。ギシギシ軋むのはもちろん、やたらとガスくさい。シートは垢がこびり付いているかのようにテカテカ光り、そこかしこが破れて中身がはみ出している。シートが倒れたまま戻らない座席やガムのようなモノが挟まっている座席が目に付く。そこかしこから雨漏りがしている。水滴をよけなければならない。よけないとさらに冷えてしまう。それに窓が完全に閉まらないから風が吹き込んでくる。寒さはピークだ。足の指の感覚がなくなってきて、ラジオから流れる幻惑音楽の中、眠さが増してくる。

男たちは、垢のこびり付いた服を着て、なにが珍しいのかオレの顔をじろじろ見る。そしていろいろと話しかけてくるがさっぱりなにを言っているかはわからない。わからないが、なんとなく親しみを持ってくれているようだ。子供たちがなんでこんなに多いのか?というくらい多い。だからやかましい。まるでガキどもの叫び声で作られた合唱団のバスのよう。

途中で乗り換える必要があるのだが、言葉が通じないから、場所だけを連呼する。シディカセム、シディカセム!!チェンジ、チェンジ? シャウエンからシディカセムまで3時間と言われていたが、実に4時間30分掛かって着く。途中20分休憩と言っていたようだが、45分も休憩。車掌は知っている限りの英語で対応してくれようとはしてくれる。でも20ミニッツ。ヒア。くらいのものだ。車掌と言っても見ようによっては浮浪者と変わらない。はっは。笑い顔がなかなか良いじゃないか。シディカセムでは隣の男がニタニタ笑って、ここだと指を立てている。追い立てられるようにバスを変える。メクネス、メクネスと連呼。するとすべてはジェスチャーで動く。なんか言っているが、分からないから適当に乗る。で、バス内で再び皆に、メクネス、メクネスと連呼。肯く人々。

どうやらメクネスに近づいてきたようだ。再び、メクネス?と聞くと、そうだと肯く。すかさずメディナ、メディナ!と声に出せば、黙って座ってろ、という仕草。そしてにたっと笑う。オレもにたっと笑う。山谷にでもいるような気分になっている。と、岡林信康の歌が口に出る。
 岡林の歌は単純だなあと思う。なんでこれが受けたのだろう。ディランに影響を受けた拓郎にしても、やはりディランは遠いと思わざるを得ない。モロッコの歌は良い。時間が消えていく感覚。でかい音でバスの運転手がラジオを流している。ラジオの音楽が人々をときどき黙らせる。音楽がまだここでは生きている。老若男女が同じ歌に酔えるのである。もうこんな時代は日本では遠くなった。

 メクネスに着いた。ここからが驚きの連続だった。タクシーはどこだというと親切に案内してくれる。タクシーに乗れば、この住所は分からないと言って降ろされる。分かっているタクシーを捕まえようとするが、みんな分からないと言う。これがモロッコの他の都市ならば適当に乗せられ、なんとなく適当なところで降ろされてしまう。ならば、ということでとにかくメディナ、プラザ、センターに行ってくれと頼む。でなければ、誰も知らないからと言って、乗せてくれない。タクシーの運転手に20ディルハムでどうだ?と聞くと、10で良いと言う。ええ??この距離なら10ディルハムで良いというのだ。他ではまずあり得ない。

プラザに着く。すると音楽隊の演奏があった。これがまた素晴らしい。幻惑感で一杯。ラッパのような音がいくつもいくつも繰り出される。ああ、トルコの音楽のようだと思いつつ、10キロのバッグを担いだまま、聴き惚れる。我に返って、このホテルに行きたいのだけど、と警官に聞けば、フランス語はできないのか?と言って二人の警官が途方に暮れている。すると誰かが近づいてきて、英語で指を指し、向こうへ行ってから誰かに聞けというではないか。その指示に従い、プラザの逆の端に来て聞くと、ここなら知っているから案内するという若者がいた。迷うのは嫌だから案内してもらう。案内されたあと、5ディルハム硬貨を渡そうとするといらないと言う。ウウム。これまたあり得なかったことだ。みんなモロッコでは1ディルハムをごまかそうとするのだから。

 チェックイン。ここの受付の、案内嬢が、モロッコの他の地域では見たことのないようなキュートさ。ちょっと怖そうな女性が多かったが、この子のキュートさには唸った。そして部屋に入ると、驚きだった。素晴らしい!マラケシュ、ワルザザード、メルズーガ、フェズ、シャウエンと回って、こんな素敵なところには泊まれなかった。けれど、二番目に安い。一泊3000円くらいしかしないのである。唸った。

 とまあ、とにかくメクネス。驚きのメクネス。即刻、一泊だけではなく、もう一泊したいのだけど、と頼む。
  ウウム。やっぱり人だ。人ほど嫌な、そして素敵な生き物はない。と思う。

2013年1月25日金曜日

サバティカル日記16 シャウエン



  行くところ行くところでシェフシャウエンという場所を勧められるので、来てみた。確かに静かで素敵ではある。青と白のペンキがメディナ中に塗られていてメルヘン的と言われるのも分からなくはない。でもメキシコの方が遙かに、それを言ったらメルヘン的だよなと思う。メキシコには色彩の眩暈がある。
   今泊まっているところはスコットランド人が経営しているB&Bだが、安くて良いけれど、いかんせん暖房がなく、寒くてベッドから出られない。ホテルでも三つ星クラスだと暖房がないところが多いのだとか。ここは三つ星どころか一つ星か?

  昨日はスッキリと晴れていた。シャウエンのメディナ内にまで徒歩で出て、飯を食ってしばらくすると暗くなってきたので帰ろうと思い歩き出す。が、どこを歩いているのか分からなくなり、15分で戻れるはずのところを山道を歩きつつ1時間掛かって、やっと辿り着いた、と思った。けれど、そこからどこにいるのか分からなくなり、たまたま歩いている人に聞こうとするが、分からない言葉で話しかけられ怖くなったのか、振り向いてもくれない。結局、近場でうろうろうろうろ、30分近く掛かって見覚えのある建物に近づくことができた。
  ここは青と白の幻惑がメディナ内にあり、グルグル回って、出られず、次に近くに戻ってからは茶系の色がずっと続くのでどこか分からない。色彩が同じだと幻惑感が増す。それは他のモロッコのどこでも一緒。特に砂漠地帯に行くと、完全にカスバ色で、土色しかないようなところに四角い土の建物が並んでいるから、さらに分からなくなる。

  今日は雨。
  寒くて雨が降っていると部屋に籠もったままどこにも出たくなくなるが、近くに飯を食うところがない。バスのチケットも購入する必要があって外に出た。傘を買おうと思ったがどこにも売っていない。バスターミナルまではいくらでもタクシーが走っているから捕まえればいいと言われて出たが、タクシーは一台も通らず。結局、雨の中を濡れ鼠で30分掛かってバスターミナルに辿り着く。ダウンジャケットが濡れてペラペラになり、それでもまだ傘は手に入らず。

  明日のメクネス行きのバスの時刻を聞き、チケットを買った後、雨の中を再び歩くのが嫌になって隣りのカフェに行く。と、薄暗い中に店主がポツリと立っている。営業中?と聞けば、にたりと笑ってなにかぼそぼそと言う。どこのカフェも同じで、クソ寒いのに扉を開け放ち、暖房なんて当然のようにあるわけもなく、電気も点けず、客は皆ジュラバを着てネズミ男のように目を光らせる。

  最初は歩いた後の熱もあり、異常なほどたっぷりと砂糖が仕込まれたお茶が美味しく感じたけれど、次第にダウンジャケットに浸みた雨が下着にまで達し、冷えてくる。これはマズイと歩き出そうとするが、雨は一向に止む気配なく、なんとかタクシーを捕まえてメディナに。メディナには傘があると聞いたからだ。メディナまで来ないと傘さえ手に入らないとは驚きだが、なんとかこうして傘を手に入れた。傘を求めて濡れ鼠になり、カフェに寄り……。傘がなぜ必要かと言えば、明日のホテルからバスターミナルまで、荷物を持って再び濡れては歩けないと思い込んだ。タクシーが捕まるとは限らない。

  寒くていられないから、再びカフェに入った。。このカフェは中心地にあるカフェで、客も大勢入り(だが女性客はひとりもいない)、男たちはみんな、テレビでサッカーを見ているから少しは外より暖かい。それでも扉は開け放たれたままだ。モロッコでは、カフェは男たちが皆でテレビを見る場でもある。夕方になるとぞろぞろと映画を観るためにジュラバ男たちが集まり出す。ベルズーガのあるレストランに入っていると、テレビが映らなくなってしまった。途端に男たちは皆出ていって、別のカフェで映画を観だした。まるで力道山を見ていた日本人と変わらない。ひとりも女性はいない。思えば店主もみんな男だった。

  傘を差して街を歩いてみる。石畳が滑り、足が取られて水たまりにドボンと浸かる。歩いているときは良いが、止まると冷えてくる。が、山が煙って温泉地に来ているような気分になって何となく気分良く街を歩き続ける。雨が景色を失わせるとは限らない。雨は晴天時とはまったく別個の表情で微笑むが、一方、僕の手はかじかみ、足の指はどんどん冷えてくる。

  それでも歩く。見る。匂いを嗅ぐ。耳を澄ます。

  モロッコの音楽が染みてくる。再びカフェに入り、寒さに震えながら、音楽と雨の音を聞き、幻惑の青い街を見ている。